2011/07/27(水) 追悼 中村とうようさん
7月21日、音楽評論家の中村とうようさんが自殺した。
お名前を初めて認識したのは、フクウェ・ザウォセに関する記述でだったと思う。
「中村とうようが『七色の声』として賞賛したタンザニアの音楽家」というような記事をどこかで読んだ。
その数年後に、自分がフクウェ・ザウォセに教えを乞いに行くとは思ってもみないころだ。
2006年にソロ・アルバムの「リンバ・トレイン」が全国流通され、同年のミュージック・マガジン5月号にレビューが掲載された。
「マガジンにとうようさんのレビューが出てるよ」と知人に電話をもらい、さっそくみたら、高得点とともに好意的な意見が書かれていて、「あの、ザウォセを褒めた人が!」と天にも昇る気持ちになった。
それを機に、初めて電話でお話しした。
「あなたは素晴らしいことをやろうとしているのだから、これからもがんばってください。」とおっしゃてくださったのだが、口調がとても怖くて、褒めていただいたのか叱られているのかよくわからなかった。
初めてお会いしたのは、2008年だ。
横浜で開かれた親指ピアノのイベントにいらしていた。
紹介していただいたとき、意外と好々爺だと思った。
足もとのエフェクターまわりについて質問されたのを覚えている。
フクウェ・ザウォセの遺族からなるグループ、「ザウォセ・ファミリー」名義でのアルバムをお送りしたら、たいそう喜んでくださり、これは素晴らしいアルバムだから、マガジンの個人ベストに入れたという内容のお手紙と一緒に、フクウェ・ザウォセのレア音源をご自身で集めたCDRを送ってくださったこともある。
このころから、マガジンの「とうようズトーク」のコーナーに、ご自身で集められたレコードやCD、楽器などを武蔵野美術大に寄贈する計画の進捗状況が語られるようになった。
昨年マリンバ・アンサンブルと共演した際に見に来てくださり、その数ヶ月後、「来年、ムサビで展覧会をやるから、マリンバ・アンサンブルとのセットで演奏してほしい」とご依頼いただいた。
おりしも今年3月11日にとうようさんから、ムサビの演奏日程についてのお手紙が届いた。
3月10日付けのお手紙には、「足腰がメッキリ弱ってしまいましたが、まだまだこなすべき仕事がありますので、がんばっています。」とあり、ムサビでのコンサートは録音してCDにする旨、書かれていた。
今年9月に出すアルバムへの、コメントを依頼するため、5月にサンプル盤をお送りしたのだが、発送して1週間もしないうちに郵送で応援コメントを送ってくださったのも、とうようさんだ。
おもしろいね!スゴイね!サカキマンゴーの新作はワールド・ミュージックを超え、
アフリカン・ロックを一段と発展させてる。ゴー・マン・ゴー!
(中村とうよう)
普段のとうよう節とは全く異なるポップさに多少ひるみつつ、お礼の電話をかけたら「鹿児島弁の響きがおもしろいね」と声をかけてくださった。
9月のムサビでもコンサートの件で、打ち合わせをしたいので上京日程を教えてほしい、とも言われた。
中村とうようコレクション展が今月4日から始まり、8日にオープニング・レセプションが開かれた。
ツアー後のプロモーションで都内に滞在していた私は運良く出席することができた。
立食パーティーだったが、とうようさんは椅子に座られていた。
「親指ピアノの演奏家ですが、しゃべりも芸人並みです」と立ち上がって来場者に紹介してくださった。
とうようさんと言葉をかわしたのはそのときが最後だ。
7月21日、電話で一報を知り、言葉を失った。
なぜ自殺?
どんな気持ちで遺書を書き、投函してから何を思って過ごしたのだろう?
飛び降りてから数秒、彼は何を見たのだろう?
とうようさんがフクウェ・ザウォセを広く紹介してくださらなかったら、ぼくがザウォセに弟子入りすることがあっただろうか。
9/12のムサビでの演奏は追悼ライブにしようと思う。
どういう巡り合わせか、ちょうど四十九日ごろである。