2011/07/27(水) 親指帝国ツアーは東北へ行った
7/1 福島市内打ち上げにて。参加者の持つ線量計は0.11マイクロ・シーベルトを示した。
5月の西日本編と6月からの東日本編にわけて行った「親指帝国ツアー」は今月上旬終了した。
後半の被災地巡りは、実に衝撃的で今後の活動にも大きな影響を与えるだろう。
福島へ正直、どういうテンションで向かっていいのか、自問しながら車で侵入した。
まず、マスクをしているのは県外者とおぼしき人と子どもだけという事実に少なからず驚く。
東北ツアーの仕掛人、仙台在住の山田ガハクも「マスクして高速バス乗ってきたけど、福島着いたら、誰もマスクしていないから、はずしちゃった。」
ここで、我々がマスクをすると、マスクをしていない福島の人はいたたまれない気持ちになるだろう。あるいは諦観か?しかし、そのままでいいのか?
福島ライブを企画してくれたW氏は、「事故直後はみんなマスクしてたけど、そのまんまじゃ生活できないからねー。」と言った。
ライブ前にラーメン屋に入った。
「冷麺はじめました」の感覚で「ガイガーはじめました」と線量計を売っていた。
山田ガハクが一杯やりにいった居酒屋では、「おにーちゃん、こんなとこ来たくなかったでしょ」とカウンターの向こうから店主が声をかけてきたという。
そんな戦場最前線のようなあいさつと、一見平和な風景が共存する飲み屋は、現在地球上に福島にしかないのではないか?
ライブは盛り上がった。
楽しく演奏してなんぼだが、反省点もある。
今回のツアーでは、4月に鹿児島弁で書いた新曲「Small」を毎回演奏している。
5月の西日本編では、地震にまつわる出来事に対しての思いを話しながら演奏することもあったが、今回福島でこの曲について話しているうちに、なんだか、お客さんを楽しませに来たはずが、上から目線で慰めにきているようで、動揺してしまったのだ。
わかりそうでわからない日本語の歌にさまざなな解釈、あるいは誤解をして、膨らませて楽しんでほしい、その思いで以後の日程では、あまり話さなくなった。
7/2 宮城県名取市
仙台ではじめて、津波の被害を目の当たりにした。
繁華街に何の影響も見えないのに、車で少し走っただけで突然景色がかわる。
破壊された駄菓子屋の店先には泥だらけの冷凍庫が転がっており、その中にはいまだに開封されないままに溶けたアイスクリームが残っていた。
盛岡では、被災地に向けてさまざまな活動を展開している人たちと一緒になった。
自宅が流されたという共演者は、あるべき場所から2キロ先に自宅の2階を発見したそうだ。
近くに落ちていた奇跡的に無傷なギターを演奏していた。
過去に何度も演奏しに行った石巻。
リアル・ローリング・ストーン。
港のすぐ前にある馴染みのハコには船が突き刺さり、取り壊しが決定になったそうだ。
商店街のなかに、無事だった機材を運びこみ、新しく開店する準備をすすめていた。
地元の人は「きょうはまだましだ」というが信じられない匂いがする。
腐った魚となにかケミカルなものが混ざったような。
ライブは、商店街の一角にある雑貨屋で行った。
シャッターを2面あけると、ほぼ屋外で演奏しているような解放感がある。
ここも水につかり、家財道具や泥を出したばかりだという。
蝿が多い。蝿取り紙が天井から下がり、蝿たたきが活躍している。
自分が子どものころ、蝿はどこにでもいたのに、いったいいつから人間の生活圏から追い出されてしまったんだろうと、ふと思った。
リハ中雨が振り出し、近所の人が「水があがってくるよ」と警戒している。
地盤沈下し、満ち潮や雨に常に警戒せねばならない暮らしが続いている。
水の侵入に備えて、エフェクター類は一段高く設置した。
このツアー中唯一の無料ライブが始まった。
ライブ本編中、一言もしゃべる気にならなかった、ただゆっくりと演奏した。
雨がやみ、外で聴いてくれる人もいた。
ハコの中で反響している音の他に、遠くのビルに反響して返ってくる自分の音を感じた。
曲が終わってもすぐに拍手をもらえない。数秒後にため息が聴こえ、そして長い拍手。
いいライブだった。
その夜のうちに岩手の藤沢町へ移動するつもりだったが、夜間は道が通行止めになっているという。
ライブに来てくれたボランティアの案内で、宿泊所に泊めていただいた。
そこで耳に入った、ボランティア同士の会話が懐かしかった。
「どこから来たの?」
「○○さん知ってる?」
「オレも○○行ってたよ」
「こんどは○○で会おうね」
バンコクのカオサン通り、ナイロビのリバー・ロード、世界中を旅しているビンボー旅行者が集まる宿と変わらぬ会話だった。
7/5 南三陸町
翌朝、まっすぐ藤沢町へ向かわず、南三陸町から気仙沼へ沿岸をドライブした。
空襲を受けた街もかくや、というような言葉を失う風景ばかりで、ただ唖然とする。
一方、そこに人が暮らした証しともいえるガレキの山を少しずつかきわけて、生存者を探し、人の通る道、車の通る道を急ピッチで整備したからこそ、ここをドライブできるということに気づく。
現在も工事が続いていて、しょっちゅう車を停められる。
「なんとかして元に戻すんだ!」という経験したことのないアッパーな雰囲気を感じる。
ガレキの山の上に草が生え、花が咲く。
4ヶ月。日常となったガレキのわきを、大人たちのアゲアゲな空気をまといながら中学生が学校へむかう。
将来、どんな逸材が輩出されるのだろうか。
藤沢町で演奏したカフェもいつも立ち寄る店だ。
生音でもコンサートをやったことがあるいい音響のハコだが、今回は持参のアンプに全ての音を入力し、三角屋根の天井に向けて音を出力した。
ステージからの迫力は減るが、うまい具合に乱反射して音に包まれるような感じになった。
過去ここでやったライブ全てに出席してくれている方の姿が見えず、少し動揺する。
アンコールが始まるころに姿が見えた。
よかった。